昭和四十六年十二月二十四日 朝の御理解
X御理解 第二十五節 「信心は大きな信心がよい。迷い信心ではいかぬ。一心と定め い。」
信心は大きな信心がよい。大きな願いも持て。私は大きな願いを持つという事は、はり大きな信心だと思いますね。
大きな信心にはいきづまりがないとおっしゃる。いきづまりを感じるような信心では、大きな信心とはいえない。その為にはやはり大きな願いを持つ。
一昨日、一寸外へ出らして頂く時に見たんですけどね、金光教合楽教会の高い塔が錆びてあっちこっちはげましてね、大変見苦しゅうなっておる。出来れば年内に塗りかえて頂こうと、そしてあの、こっちから帰りがけに見えるところに、世のお役に立たせて下さいという、一昨年、去年は塗りかえませんでしたから、そのままになっておる、あそこんところを出来るなら、ひとつ白地に赤く、赤で書いて貰おう。そして和賀心時代を創る、いわゆる和賀心時代を創造して行く、和賀心時代をいわば築いて行くと、何かそういう解り良い言葉で、そういう時代に向かって突進させて貰うとる合楽の信心というか、合楽の信奉者一同の願いを、あそこに書かして頂こうといったような事を考えた。
世界にひろげていきたい。もうこれは単純にあまり複雑に考えないがよい。先日もあらゆる宗教を勉強したという人が、私がいう和賀心を世界に広めるという事を非常に共鳴されました。もう理屈じゃないです。
しかもわが心という和らぎ賀ぶ心というか、どのような事に直面しても、くずれない心、それが和の心なのである。只、今は和らいどるけれども一時間後にはもう乱れておるというのは和の心ではないです。いわゆる不壊のものである。壊れないもの。 そういう心を目指す。賀というのは教祖様は祝賀の賀じゃとおっしゃる。お祝いでもする時にはいやが上にもめでたくなって行く心なのです。有難い心なんです。
そういう心を目指さなければ、人間の幸はあり得ないのだと、もうこんな単純な事はないじゃないか。人間が幸福になりたい、世界総人類が助かっていきたいと、世界の隅にまで白であろうが、黄であろうが、黒であろうがあらゆる人種差別はない。
どういう人間でも神の氏子として、しかも神の氏子としておかげ頂きたいという。 幸になりたいという願いは皆が持っておる。そこで本当に幸になりたいなら、この和賀心を目指せというのである。そこには人間の幸がいろいろな意味で約束されておる。おかげは和賀心にあるのである。
それで和賀心になってしまわなければおかげは受けられんのでなくて、そういう姿勢でそういう思い込みを作る事を一人でも多くの人に、広めていこうとわが心時代を創るというのはそういう事だと思う。
創るというのは創造するの創るというのです。いわゆる築いて行こうというのである。大きいでしょが、信心が。だから合楽の信奉者は一丸となってです、もうここのところに焦点を置いて、行けれる信心を手に手を取ってそういう信心を、進めて行きたいと思う。そういう大きな願いを持たせて頂くのであるからです、そこに少々の障害があろうが、きつい事があろうが、苦しい事があろうが、そういう願いを聞き届けて貰い、そういう願いを貫こうとするのですから、いわゆる迷い信心ではいかん。
一寸いきづまったらもう迷う。一心と定めい。どんな事があっても貫こうとする意志をいよいよ強くして行かねばならない。けれども、単純にね、そこのところだけはわかって、素晴らしい事、ところが実際に運動に参加するというか、まず自分の心から、ところが仲々難しい。そこにもここにも伏兵がある。いわゆる障害があるというのである。
昨日ある方から、電話がかかって、まあ大変に難儀な問題に直面しておられるのである。お金を借りにまわったけれども、どうにも仕方がない。まああそこに、やや当てがあるから行ったけれども、出来るようで出来ない。先生どうさせて頂いたらよかろうかというのである。どうさせて頂こうといったって、それはもう、私だってどうも仕様がない。
神様がどこそこに借りに行けとおっしゃるはずはないのである。ここに借りに行くのが右と左とあります。どちらに借りに行こうかというのならまだわかる。けどどうにも出来ないものをどうさせて頂こうかというたって仕方がない。
そしたら私、その事をお願いさせて頂きよったらね、坐カブの大根が横に寝とるところを頂いた。そういう時にはどうにも仕方がないのだから、本当にどんずわり、坐り込まにゃ駄目なのだ。けどもそれが横寝しとる。大根が坐っとらんならんはずのが横に寝とる。だからそういう事ではいかんから、どん座る気になりなさいと。もう、どうしょうもないなら、手の打ちようがないなら、合楽に来てから一晩でも二晩でも祈りぬかせて頂く。どん坐る気になんなさいと。次に御心眼に相手に握手を求めておるところを頂いた。ところが相手の影が薄い。握手を求められるけれども、相手は手を引っ込めたところを頂くのですよ。握手を求めておる。ですから握手を求めてこう手をひろげとるけれども、相手が握手を拒んどるとするなら、もうこれをこう握るより他にないではないか。握手する相手がない。いわゆる、ジヤンケンポイをする時の石を出すより他にないのである。石というのは心の事。そうでしょう。相手が無いのだもの。相手にしてくれないのだもの。握手をしようとしても相手が手をひっこめとるのだもの。なら、拡げておると、いうなら風呂敷を出しておるのです、ね。
こっちが握手を求めておるけど、向こうが握手をしてくれないとするならばです、いうなら、風呂敷を石にするより他にない。石・・・意志という事は心なのだ。
いわゆるどうしたらよかろうかと、神様にお伺いするという事ではなくて、神様に私の心の中にです、いわゆるどん腹を頂かせて下さいと。あんたの意志で行けと、そこは神様に向かう事ではないと、あんたの心で行けと。風呂敷から石にして行けと。 風呂敷という事はこうお広げ下さいという事でしょう。下さいというても相手がやらんのですから、やろうとしないですから石にする。意志という事は心、意志を強くするといでしょう。いわゆる腹で行けという事を私は申します。どん腹で行けと。そのどん腹がです、本当にどん坐って一心を立てなければ、どん腹が出来んのです。
いわゆる、ままよという心なのです。ここまで一生懸命人事の限りをつくした、そこでこれからは、もう信心度胸で行くより以外にはない。どん腹で行くより以外にない。そこから又、広げてくるものがあるだろう。それにはまず、どん坐って願う事がまず第一である。にもかかわらず、あっちうろうろ、こっちうろうろ横寝どもしとってから寝ながら、どげんしたらよいでしょうかというても、おかげが頂かれるはずがないではないか。おかげを下さろうとする神様、おかげを頂きたいと思う私共、おかげを頂きたいと思う者、おかげを下さろうとする神様、そのところがです、只、それだけの事だけれども、そんなに容易いのとは思われない。下さい、ああそうかというて、やりたいけどそれでは出来んわけなのです。それでは頂けない。そんなに簡単な事ではない。例えていうならです、百斥のものを求めるならば百斥を持てれる力をまず頂かねばならんという事。自分は例えば、十文なら十文の足しか持たないのに十一文の靴を求めても、それを親がくれるはずがない。私共が十一文に丁度よい大きな足を頂いて、はじめて与えられるのである。小まか子供のごたる足しといてから大人のごとある靴を求めて、与えられるはずがない。与えたいのです、与えたい者、頂きたい者両者がここに相対したのですから、頂けないはずはないけれども、その為には大きゅうならなければならない。その為には、もっと近寄らなければならないという事になるのではないでしょうか。
例えば、お芝居の勧進帳なんかを見ますとそうですね。やはり関所とのがある。神様は下さろうとしてある。こっちは頂きたい。そんならすぐ頂戴したいから手を差し出せばよいと、そういったものじゃない。ここを通りぬけなければ、先に行かれんというのである。通りぬける為に一心とか真とかいわれるのである。
その一心を真を、貫かせて頂く。神様としては通らせたい。けれどもこっちが通行切手を持たないならば、通らせるわけにはいかん。
婿選びの話がある。大変な財産家の一人娘さんに、よい婿を迎えたいと。力も欲しい、度胸も欲しい、そういう人を選びたいのでそれが募集をしたわけですね。沢山の人が集まりました。そころが仲々条件に適う人がいよいよ少ない。ある日、立派な青年がやって来た。いろいろ条件に適う青年である。そこへ第一度胸が要る。そこで、あらゆる度胸試しをされましたけれども、その度胸試しにも見事パスした。そこで、嫁さんになる娘さんがいわれる事、あなたが私の家を継いで下さる婿さんになって下さるわけでしょうけれども、実は私にはこういう趣味があるのです。こういう道楽がある。一緒になるからには、ここんところも知っといて貰わなければならない。
そこのところも認めて下さらなければならない。というてある部屋に案内ささた。 まあ部屋に入って驚いた。もう白骨が累々として積み重ねてある。その部屋に、しかもね、その娘さんがその白骨をポキッと折ってきては、その白根を食べる。あなたも一つどうぞ。これから私と一緒になって下さるなら、こういうお付き合いもして貰わなければならん。もうその時だけは、もう止めようかと思うた。けどここでへたばっては、ここで音をあげてはいけないと思うて、それこそ死ぬ思いで、その白骨を骨をおし折ってから食べろとこういうわけである。それでそれを食べた。ところがそれは氷砂糖で出来おったというのである。まあ話を聞いたら一ぺん通ってみると、こんなにも楽な事はなかったのですけれども、そこを通り抜けるまでは、やはり度胸が要った。それこそ、ままよという。どん腹なしには通り抜けられんところもあった。
後で通ってみると、あれも御神慮の中にあったんだという事がわかる。まあ、いうならば、あれも神様の御演出であったなと、思わせて頂く程である。それを目の前に拒むものそれはもう、いかにもそこだけは、他の事なら辛抱するけど、これだけは辛抱出来んといったものである。そこんところに私はどん坐ってとか、腹で行けというところが必要であると思う。
お互いが、いわゆる大きな信心を、大きな願いを立てる。大きな信心とは行き詰まりのない信心。ここ二,三日言われておる、いわゆる大きな信心とは、天地金乃神様を助けるという。天地金乃神を助けてくれと、金光大神を通してのその願いがです、私共がその、天地金乃神様のお心をたいして行こうという信心が、一番大きな、成程天地金乃神を助けるというのですから、こんな大きな信心はない。そこに神も助かり氏子も立行く道が、顕現されてくる、開けてくるというのが金光大神のいわゆる、お取次の道である、金光教の信心の心になるところなのです。
氏子おかげを受けてとこうおっしゃるのは、勿論真実の幸福という事でありましょうけれども、その幸福というものも、神様と一緒に幸福となれるという道。
神も助かり、氏子も立行く道。そこで神様の願いであるところの、世界総氏子のた助かりという事。人間人類の助かりという事。そのキ-ポイントになるものは、心だと。外の何事、何物でもない、しかもその心がです、和賀心を目指さなければならない。どのような事に合っても屈せない和賀心。どのような場合であっても、有難しと頂けれる心。しかもそれは祝賀の賀とおっしゃる程しの心。祝い賀ぶ。赤飯炊いて祝う心という事もいわれる。そういう心を目指すという事。という事がとりもなおさず人間の幸福の基になる為には、これを目指さなければ、どれだけ巨万の富を、どんな素晴らしい制度が、世の中に出来ても、例えば、いま欧州の方では年寄りを、何というのですか、養老年金、日本にもありますけど、それが充分に贅沢なものだそうです どういう贅沢でも安楽に出来る。ところがそういう施設が出来たところが、そういう施設の中で、自殺をする老人が非常に多く目立ってきたとこういう。金やら物やら設備がよいだけで人間が幸でない事がわかる。孫に会いたい、子供に会いたい、もうそういう心というものがです、飢えておる老人ぱっかりだと。
如何にもきちっと洋服を着て、散歩の時間公園なんかでです、老夫婦が散歩に出ておる。一寸目には、えらい仲のよい余裕のある裕福な家庭の老人であろうように思うけど、その老人達を見るとです、もう本当に虚ろな目をしておる。何を見ておるかわからん。その時間だからそこに行かなければならなかった。家に今日は寒かけん居りたいばってん、しちゃち出らにゃんごとなっとる。何の目的もない。ベンチに腰かけて老夫婦が話とると如何にも仲睦まじい事と取ったりあんなにも思うごとある情景ですけど、その人達の目を見ると、もう実に虚ろな目をしておるといわれておる。
心を大事にしないからなのである。いわゆる心を大事にするという事を、お道では和賀心という。これはだから、何をするにも、心が土台になるものでなからなければ真の幸ではないという事。心が生き生きと瑞々しい、どんなに年寄って、枯れ果てて行くようであっても、心だけは有難いと目をつぶって、有難いなあと思うたら、有難い涙がこぼれてくる程しのものでなければならないという事。そういう心をです私共が頂いて、それを人にも伝えて行く。まさに和賀心時代を目指すという。
そういう大きな願いを立てての信心に方向を持ちたいと、お互いの信心がなされて行かなけれりゃならん。
信心は大きな信心がよい。こんな大きな信心はなかろう。しかも迷い信心ではいかん。どうしてよいだろうかと、成程あります。そういう時にはです、迷わずにどん坐らねばいけません。もう相手にしてくれるものがないならば、もうそこに行き詰まっておるならば、そこから風呂敷を広げるような、そこからおかげ下さいというのではなくて、それをもう一ぺん、つぶって石にせなければならない。固い石をつくらなければならない。そこから腹で行けという。そのはっきり腹で行くという道がひらけてくる。それをいうというなら、ままよという心である。ままよとは死んでもままよというような度胸が出来てくる。そこから私は道がひらけてくる。一心と定めい。
そういう一心と定めなければならない、もう事そこに至って、ああがよかろう、こうがよかろうと、うろうろしてはつまらんという事。大きな信心を頂かして頂く事の為に、貰かせて頂く事がそういうような事に直面したり、問題にあったり又、それをかえって通らせまいとするような働きを感じる事がある。そこのところを一心を貫かせて頂くと今の白骨の菓子ではないですけど、通ってみるとそれは氷砂糖であったというように、通れない事は決してない。
先日、どなたでしたかね、頂いとられましたように、山に登ろうと思う、それはもう切り立ったような山である。とてもこれには登れまいと思うと下から腕をこまぬいただけでは登れない。本気でそれでも登らなければならない。登ろうと思ったら上から桂がさがってきておった。桂に手を掴んだ。足を置くところがある。手を持って行くとところがある。登ろうと思ったところが案外容易い登れたというのである。
それほど登れない山ではない絶対登れる。登ろうという気になれば絶対登れるのである。そういう一心をいよいよ強いものにしていかなければならん。
信心は大きな信心がよい。私は皆さんがね、私のいうところの和賀心時代に向かって、突進するという信心こそ、いよいよ私は大きな信心だと思う。その為には先ず、私がその姿勢を取らせて貰い、私が和賀心がこのように有難いものだ、しかもその和賀心には、このようにおかげが頂けるものだという一つの信心の手本を、作って行かねばいかん。しかもそれを、世の中に広めて行こうという信心。これこそ神様の願いに応えて行く信心とはそういう信心。
神を助けるとはそういう事なのである。信心がお取次をされてなされる時に、私共はいつの間にか助かっとるという助かり方。確かに和賀心になる事が人間の一番幸福であり、しかも和賀心にはあらゆる人間の幸福の条件というものが足ろうてくる。
一心に願え、おかげは和賀心にありとおっしゃるように、おかげはわが心に伴うてくるものだという事をです、私共が体験させて貰うて、そういう姿勢を世界中の人達にわかって貰う。何かばたばたするがその前、先ず心を創れ、人間は和賀心にならなければ本当の幸福はないんだぞという、思い込みを創らせるだけでも素晴らしい。
その為には和賀心学という学問が必要であるかもしれん。だからそういう学問もさせて頂いて、いわゆる和賀心時代を築いて行こうという姿勢を創る。そこに、いわゆる一心と定めい、だからこの事を説明するとです、申しましたようにあらゆる宗教を研究した人達が単純にいわば、いろんな理屈をいわずに、聞いたら成程先生はいわれる事は素晴らしい、あなたのいわれる事には共鳴致しますとこういう。ところが、実際問題は、そういうわけには行かない。それを私共は一つ一つ克服して行くというか一つ一つそこを信心で頂きぬいて行くというか、いわば精進が必要である。それが修行。それが場合にはおかげを下さろうとする神様、又は頂きたいという私達、そこに障害さえなければ、頂きたいものと渡したいものとが相対するのですから、いと簡単のようですけれども、ここの中に障害というか、そういう今日私が申しましたような神様はそれをわざと、いうならば、神様が皮肉にです、そういうところを通れるか通れないかという事をです、試される場合すらある。億万長者の例えば、花婿になるというのですから、いよいよこれから、何不自由ない生活に入って行けるところに、入って行けるのですから、それが十人が十人、入って行けるとは思われない皆が落第である。おかげ下さりたい、頂きたい、けどそこにはそういう、そこには試練といかお試しというかいわゆる、関所というか、様々なところを通りぬかせて頂く修行が必要である。そこに直面した時に、私共が日頃信心の稽古、信心の修行がしっかり出来とらんとです、もうそこで迷いが起こってくる。迷い信心ではいかん。一心と定めい。 どのような事があっても貫くという、一心を立てなければならんという事になるのです。だから私共人間が、和賀心を目指さなければ幸福はあり得ないという、単純な思い込みというものが、次にはその単純ではない、複雑怪奇とも思われるような道を私共辿らせて貰う。けれどもそしこを通りぬかせて思わせて頂く事は、決して複雑でも怪奇でもない、もうそれこそ氷砂糖をなめるように容易い事なんである。
通って来た後を眺めて見ると、本当にああもう容易い事をあそこで躊躇してがたがた震うような思いをしたというだけの事である。通りぬかせて貰うと、成程と合点が行くわけであります。そこを通りぬかせて頂く為に信心のやはり度胸もつかねばならない。お願いして頂けんなりもう下さいと風呂敷ばっかり広げとかずに、本気でそれをつぼめる私は生き方にならして頂いて、どん坐って願わしてもらう、腹で行けれる信心、十二分の徳を受けようと思えばままよという心になれよと、ままよとは死んでもままよの事ぞと、その十二分の徳こそがです、私共がどうでも頂かねばならない、そこに到達せなければならない世界、そこを目指して、おかげを頂くそうい見本、そういう手本を、世界のすべての人達にそれを見せながら、こういう信心になればこういう行き方になる。ればこういうおかげが頂かれるという。おかげを銘々が頂いて行きたいとこう思うのです。
合楽の皆さんそこんところをです、銘々が頂かして頂こうという気になるという事がです、とりもなおさず信心は大きな信心がよいとおっしゃる。大きな信心ではないでしょうか。それには大きな願いを立てる。こんな大きな願いを立てとるのであるから、例えば、ここは通りぬけられんという場合であっても、こういう大きな願いを立てとるのであるから、此処はどうでもという一心が出てくるようなものではないです そういう場合に迷い信心にならない。迷わんで済むおかげを頂かして貰うて、一心と定めての信心を頂きたいですね。
どうぞ。